第1号(あまちゃん)

あまちゃん 第17週「おら、悲しみがとまらねぇ」第96話(脚本:宮藤官九郎、演出:梶原登城 (C) NHK)より

我ながら苦しい題ではあるけど、このエピソードは重要なので外せないのである。

さて夢破れて天野春子(有村架純)はタクシーを呼び、

天野春子「上野まで。」

ところが運転手は黒川正宗(森岡龍)だった。春子は忘れ去っていたのだが、鈴鹿ひろみの代役を頼まれた時に春子をスタジオまで運んだ運転手だったのである。正宗はそのことをよく覚えていた。時は平成元年(1989年)である。その時の話を黒川正宗(尾身としのり)はこうアキ(のん)に自宅で話した。

黒川正宗「おっどろいたよー。同じお客さんを偶然乗せること自体、珍しくないけど、ママの印象は強烈だったからねえ。だけどパパ、印象薄いだろう。向こうは全然覚えてなくて。」
天野アキ「言えば良かったんだよ。その節はどうもって。」

黒川正宗はこう説明した。

黒川正宗「口止めされた。」

正宗は関西弁が苦手だったのである。

黒川正宗「苦手なんだよ、関西弁。全部が脅し文句に聞こえるでしょ。」

そう言うと関西人、怒るでえ。でさらにこんな理屈っぽいことを言い出した。そう、この男はそういう細かいところにこだわる性格だった。

黒川正宗「だいたい、英語の you に相当する言葉が多すぎる。われ、おんどれ、とか、あほんだら、とか、自分、とか。自分は you じゃなくて me でしょうが。」

それを聞き

天野アキ「懐かしい。」

話が進まないので巻き気味に行こう。

正宗(森岡龍)は上野まで春子(有村架純)を乗せ、思い出して欲しくて色々と話を振ってみたのだが全然ダメで、上野から戻ろうとした時にまた春子が車を止めて正宗の運転で世田谷へ帰ったと言うわけだ。え? 思わず正宗は尋ねた。

黒川正宗「お客さん、さっき世田谷から乗りましたよねえ。」

これで春子も気づいた。とは言っても、春子の方は往路の時を思い出しただけである。だが正宗は運命を感じてしまった。その後、会話も途切れてしまい、諦めかけたその時、「原宿だか表参道辺りで奇跡が起こった」のである。なんとカーラジオから『潮騒のメモリー』が流れたのだ。

黒川正宗(森岡龍)「♪北へ帰るの〜」

と歌い出した後、

黒川正宗「懐かしいなあ。いいですよねえ、この曲。たしか、鈴鹿ひろみでしたっけ? 好きなんだよなあ。歌うまいっすよねえ。」

春子(有村架純)は「止めて」とか「降ろして」とか「上野へ戻して」とか言ったのだが

黒川正宗「これ、歌ってるの、お客さんですよねえ。」

春子は驚いた。正宗は車を止めて話を続けた。運賃はどうしたんだろうねえ。そこまではわからないが

黒川正宗「知ってますよ。覚えてませんか。あの時の運転手です。」

正宗はついクラクションを鳴らしてしまった。だが

天野春子「どの時の?」

やはり覚えていなかった。

黒川正宗「ほら、あの時のアホンダラです、私。」

やっと春子は思い出した。そして純喫茶『アイドル』に場所を移して話が続けられた。もう思い残す事はない、上野まで送ってほしい、と言う春子に正宗はこう言い出した。

黒川正宗「ずっと応援してたんです、あなたを。」

思わず春子は「え?」と言った。

黒川正宗「あの時まだ鈴鹿ひろみもデビューする前だったし、だから、私、先にあなたのファンになったんです。ファン第1号なんです、あなたの。でもあなたは表に出てこない。絶対出てこれない。しょうがないからレコード買いましたよ、鈴鹿ひろみの。『潮騒のメモリー』も『縦笛の天使』も『DON感ガール』も。」

鈴鹿ひろみのファンでもある甲斐にとっては衝撃的な話が続いた事であろう。それは兎に角、シングルレコードを指差す正宗の勢いに圧倒されたのか、思わず甲斐はどいてしまった。

黒川正宗「あなたの歌声だって思いながら。運転しながら、聞いた、聞いた、聞いた。リクエスト葉書だって送りましたよ、あなたの声が聞きたくて。なんかそのうち、あなたの事が好きなんだか、鈴鹿ひろみの事が好きなんだか、わかんなくなってきて。」

甲斐の表情は複雑だ。

黒川正宗「今じゃ鈴鹿ひろみの大ファンなんですよ。もちろん、春子さんのファンであることには変わりはないんですけど。だけど、誰にも言えないからさあ、鈴鹿ひろみの声をやっている人が好きだなんて言えないじゃん。言えないじゃん。言えないじゃんねえ。」

暴走気味になったので

甲斐「警察、呼ぼうか。」
黒川正宗「お構いなく。すいません。すぐ所定へ戻りますので。」

正宗はお冷を飲んだ後、こう言った。

黒川正宗「ただファン1号として一言だけいいですか。あのね、ここで諦めるなんてもったいないですよ。あなたの歌に励まされて僕はここまで頑張ってこれたんです。横柄な客に罵られても、酔っ払いに絡まれても、後部座席ガンガン蹴られても、あなたの歌を聴いて、頑張ってるんだからって。何も俺だけではない、タクシー業界、みんな、あなたのファンですよ。」
天野春子「鈴鹿ひろみのファンでしょ。」
黒川正宗「だけど歌っているのは、あなたです。日本全国のドライバーがあなたの歌声で癒されて安全運転を心がけるから事故が減る。春子さんの歌声にはそういう力があるんです。」

そして

黒川正宗「送りますよ、世田谷まで。行きましょう。歌いましょうよ。東京にはあなたの歌、必要としている人がいっぱいいるんですよ。」

春子は礼を言い、正宗は純喫茶『アイドル』の常連となり、春子は正宗と結婚したのであった。その話を聞き初めて正宗を「かっけえ」と思ったアキ(のん)であった。